【第8回】海の記憶を刻む街──香港の造船業の軌跡
物流と人の往来を支える都市の命脈
かつての香港を語るとき、忘れてはならないのが「海」と「船」の存在です。1842年、南京条約により香港島がイギリスに割譲され自由港として開港して以降、香港は極東における軍事・経済の要衝、そして東アジアの貿易拠点として発展してきました。特に航空機が普及する以前の時代、海運こそが物流と人の往来を支える都市の命脈であり、港湾と船は香港の日常そのものだったのです。
アジア有数の造船・修理基地として発展
そのため、船を建造・修理する造船業は都市の基盤を支える不可欠な存在でした。
19世紀後半から20世紀にかけて、香港島や九龍の沿岸部では欧米式の乾ドックや修理ヤードが次々と建設され、香港はアジア有数の造船・修理基地として成長していきます。
香港の海運・工業を支える二大造船所
中でも中心的な役割を果たしたのが、九龍・紅磡(Hung Hom)の香港黄埔船廠(Hong Kong & Whampoa Dock)と、香港島・鰂魚涌(Quarry Bay)の太古船廠(Taikoo Dockyard)の二大造船所でした。
黄埔船廠は1860年代に開設され、当時東アジア最大級の乾ドックを備え、英国海軍や各国の商船の整備拠点として機能しました。
一方、1900年代初頭に設立された太古船廠は、スワイヤー・グループ(Swire/太古集団)の傘下で運営され、大型タンカーや貨物船の建造・修理を担いました。
両造船所はいずれも数千人規模の従業員を抱え、戦前・戦後を通じて香港の海運・工業を支える柱となっていたのです。


造船業の衰退と都市再開発
しかし1970年代以降、香港の経済構造が脱工業化へと転換し、製造業の中国本土移転とともに造船業も衰退していきます。両造船所は1971年に統合され、翌1972年に青衣島の新拠点へ移転。旧造船所の跡地はその後、大規模な都市再開発へと転用されていきました。
現在、太古船廠の跡地は住宅・商業複合街「太古城(Taikoo Shing)」として生まれ変わり、香港島東部有数の居住エリアとなっています。
造船施設の面影はほとんど残されていませんが、Cityplaza東側には、かつての造船所の存在を示す礎石やボラード(係船柱)が保存されています。

一方、黄埔船廠の跡地は「黄埔花園(Whampoa Garden)」として再開発されました。中核商業施設「The Whampoa」は、かつての第1ドック跡地に建設された巨大な船型デザインの建物で、現在はイオン紅磡店がテナントとして入っています。このユニークな意匠は、かつてのドックの歴史を象徴的に再現し、海運都市としての香港の記憶を現代に伝えています。

今なお続く香港の国際貿易港
かつて造船業と海運産業を背景に世界有数の国際貿易港として重要な役割を担ってきた香港。近年は中国本土の港湾の台頭やコンテナ取扱量の減少といった課題に直面しつつも、自由港としての優位性や高度な金融・物流インフラを活かし、依然としてアジアや世界を結ぶ国際的な海運センターとしての地位を維持しています。

造船業発展の先に今の香港が在るんですね。
まとめ
- 香港は海運で発展した自由港
- 造船業が都市基盤を支えた
- 黄埔・太古の二大造船所が中心
- 1970年代以降に造船業が衰退
- 跡地は太古城・黄埔花園に再開発
- 現在も国際海運港として機能